2023/07/31 17:22
平成24年4月5日、諷詠社から「日本書紀に秘められた聖徳太子の謎を解く -隠された倭王 阿毎多利思北孤-」というタイトルの本を出版した。
本来つけたかったタイトルは「倭王 阿毎多利思北孤」なので、このブログではこの表題をつけさせて頂く。存在の確かな倭王なのに、日本の「日本史教科書教育のゆがみ」から、ほとんどの日本人はその名前すら知らない。よって歴史を推理する格好のテーマと思い取り組んだ。好奇心のなすがまま推理した流れが本の内容となっている。
このブログではそのさわりを紹介したいと思う。
古墳陵主墓碑銘調査
本業は建築屋だがひょんなことから「倭王阿毎多利思北孤」なる人物に興味を抱いた。遣隋使を送った倭王なのに、何者かがわからないのだ。
国語や漢文は大嫌いだった。しかし気になると調べるたち、最後は本まで出版することになった。そのきっかけのひとつは「古墳陵主墓碑銘調査」という、とても興味を抱かせる研究成果に出会ったことである。 出版した本を開くと、最初のページには「馬子墓」という文字が浮いた写真が出てくる。石舞台古墳の石である。
これが井上赳夫氏が始められ、それを継承された池田仁三氏の手になる画像解析(古墳陵主墓碑銘調査)の成果のひとつである。調査された古墳は、ここだけではなく日本の主要な古墳を網羅している。大変な成果である。それが不思議なことにあまり知られていない。それがこの本を書いたもうひとつの動機である。
本書の内容とねらい
聖徳太子の謎
600年に最初の遣隋使を送った倭王は、阿毎多利思北狐である。607年にも送っている。学校では遣隋使を最初に送ったのは聖徳太子と教えられたように思うが、遣隋使を送った人物は聖徳太子ではなく倭王 阿毎多利思北孤が正しい。
「日出ずるところの天子、日没するところの天子に書を致すつつがなきや」という言葉で有名である。しかしこの人物が誰か、今もって明らかでない。
600年の遣隋使は日本書紀に記載が無く、607年の遣隋使は日本書紀に小野妹子(隋書では蘇因高)が派遣されたと記録に残こされているが、阿毎多利思北孤という名は書かれていない。妻と太子が居た男の倭王だが、当時の天皇は女帝の推古天皇で、皇太子は聖徳太子(厩戸皇子)なので整合性がとれない。
日本書紀にはその説明がなく謎の人物だが、実はこの倭王は聖徳太子の父である。何故なら新唐書に「多利思北孤は用命天皇(厩戸皇子の父)」と記載されているからである。しかし用命天皇は587年に既に亡くなっており、600-607年当時はこの世の人ではない。そのような人物が遣隋使を送り、隋の使人裴世清と接見したことになる。謎は深まるばかりである。そのためこの時代が正しく理解されないまま現在に至っている。
これらからこの大矛盾を解く鍵は「阿毎多利思北孤」にあるのは確かで、これまで様々な説明がいろんな研究者によってなされている、しかし私には正直納得いくものがなかった。本書では墓碑銘調査というこれまでにない実証テータをもとに、この時代を精査し、これらの謎に迫った。 これまでアカデミズムは「日本の古墳の石棺などには墓碑銘はない」というのが基本的な立場である。この調査は第三者機関が立ち会えば簡単に確認できることである。しかし残念なことにこの方々はまともに取り組もうとはしなかったようだ。
そこでこれについては、いずれ明らかになることだが、池田さんの了解を得て調査結果を活用させていただくことにした。よって「墓碑銘調査に基づき多利思北孤およびその時代を解明する」ということは、実は「墓碑銘調査の正しさを検証する作業」でもある。日本の古代について書かれ、出版された多くの書は「日本書紀」という魔物の呪縛から逃れることは難しく、本当は重大な錯誤を犯している危険性がある。「日本書紀」がもし歴史的事実を正しく記載しているなら、墓碑銘調査と矛盾することはないだろうと思う。記載が真実かどうか、それはこの書を読んでいただければ、徐々に明らかとなる。
本書は古墳陵主墓碑銘調査の成果を活用した最初の本である。墓碑銘調査は、必ずや日本の古代史解明に光明をもたらすものである。よって本書では聖徳太子そして阿毎多利思北孤の実像に、これまでにない実証性ををベースに迫ることが出来たと信じる。本書後半は邪馬台国の時代、神武東征の時代にも簡潔にふれている。私にとって本を執筆する作業がそうであったように、読者にも推理するわくわくどきどき感を感じていただければ幸いである。
阿毎多利思北狐は誰か
次に、これまでの代表的な主張と、本書の違いについて少し触れたいと思う。一番のポイントは阿毎多利思北狐は誰かということである。
代表的な見方は、梅原猛さんの説にあるがごとく、「阿毎多利思北孤とは天皇」で、推古天皇が女帝であることを隠したという解釈である。
<この説の問題点は>
自らを「日出処天子(天皇)」と見なすような誇り高き人物が、「日没処天子(随の皇帝)」に、こびへつらう(隠す・偽る)というのは、明らかにおかしいということにつきる。また倭王は裴世清と接見し、自らを「我夷人」と述べた妻の居る男王で、裴世清は直に倭王に謁見しており、裴世清が男と女を見間違う、あるいは偽わって報告したいうのは説得力をもたないと思う。
いまひとつの見方は、岩波書店の聖徳太子を書かれた吉村武彦さんの説、「阿毎多利思北狐は聖徳太子」という解釈である。
「阿毎多利思北狐」とは、「天上世界で満ち足りたりっぱな男子」という意味で、倭王は姓名を名のらなかったので、本来名前でない阿毎多利思北孤を、姓を「阿毎」名を「多利思北孤」と隋が勝手に解釈したという説である。倭国の天皇(推古)には、接見するなどという習慣はなく、外交折衝にあたったのは舒明天皇の時も王子なので、裴世清と折衝したのは、男王の聖徳太子で、倭王とは聖徳太子と解釈されている。(この解釈だと確かに倭王は男となる。)
<この説の問題点は>
600年(開皇20年)の倭国からの遣隋使の言葉、説明と矛盾することにある。つまり遣隋使は、「倭王は天を兄、日を弟としている」と述べ、「日が昇ると弟に任せる。」と皇帝に説明している。つまり倭王は、「天=兄」でもなく「弟」でもない。そして倭王は「弟」で太子(利歌彌多弗利)と呼ばれる人物に政治を任せている。
もし倭王が聖徳太子なら、任せている弟(太子)とは誰かということになるが、該当する人物がいない。また「天=兄」は人物でなく天空で、「弟」だけが人物という解釈は文脈的におかしい。また「天=兄」と「弟」が共に人物とするなら、倭王だけがすっぽり抜けたことになってしまう。
またこれらに共通する問題点として、『新唐書』が何故,多利思北孤を用明と見なしたのか、その説明がされていない。また双方とも古墳との照合分析はまったく無い。
私はこうした理由から、これまでの、こうした通説は説得力を持たないと思う。そのため私は古墳陵主墓碑銘調査という実証的成果を手がかりに、ひとつの結論を導き出した。それは 「阿毎多利思北狐は馬子」という結論である。
これまでも「阿毎多利思北狐は馬子」という見方もある。それは当時の現実的な支配者つまり倭王は馬子しかあり得ないからである。しかしこの場合一番説明に窮するのは、聖徳太子とは何者かということにつきる。つまり馬子の長子善徳と厩戸皇子、この両者の説明がつけにくいからある。
本書では「多利思北狐の王子(弟)が聖徳太子」と、推理した。これが意味するところ、すなわち最後の最後まで、「こんな結論で良いのか?」と自問自答したのは、「聖徳太子(厩戸)の母である間人穴太部王命が、用命天皇(池辺皇子)の后であることを否定する」という考えについてである。
これはひとつ間違えば「とんでも説」になってしまう。しかし、こうした結論を導き出す過程で、日本書紀の、「馬子の妻は守屋の妹(別人に嫁ぎ子供もいる)であるといういうような思わせぶりな話」や、「2人の異なった女性を菟道磯津貝皇女と記した理由」、「厩戸とよく似た人物の馬子の長男善徳の話」が、自然と理解出来るようになった。また書記を正しく読めば、「書記の記す東宮聖徳は厩戸皇子ではないこと」、「推古の長女静貝王は聖徳太子の妻でないこと」もはっきりする。そしてさらに実証的な墓碑銘調査などから、聖徳太子の謎解明にかかわる決定的な証拠も次々出てきた。
これらは当初まったく予期しなかったもので、推理し分析する中導かれ発見出来た(気づいた)ものである。私の仮説が真実かどうか、それは今もわからない。しかしこのように解釈すると、様々な不可解な日本書紀の記述が、意外とそれなりの意味があって記載されたものであることがわかると思う。
蘇我善徳とは
仮説の始まり「阿毎多利思北孤は馬子」である証拠が、日本の古文書に残されている。これはおそらく決定的とも言える”証拠”で、何故これまで注目されなかったのか不思議にさえ思える。それは日本書記による洗脳、私が言うところの”日本書記の呪縛”とでもいうものではないだろうか。本書でご確認いただきたいと思う。
『日本書紀』に「推古四年冬十一月 大臣の男 善徳臣を以て寺司に拝す。是の日に、恵慈 、恵聡、二の僧、始めて法興寺に住り。」とある。 蘇我馬子の長男で飛鳥寺(法興寺)の初代寺司、 蘇我 善徳(そが の ぜんとこ)とは一体何者なのだろうか。
三つの考えがある。ひとつは善徳とは蘇我蝦夷である、ひとつは蘇我雄当、ひとつは別人という考えである。
推古天皇18年(610年)の記事に現れる蘇我蝦夷の年齢は、『扶桑略記』の記述によると25歳となり、推古天皇4年(596年)における蝦夷の年齢は11歳となることから、善徳は、蝦夷の兄と推定され、善徳は蝦夷ではない。
今ひとりの候補、雄当(倉麻呂)であるが、墓碑銘調査では蝦夷は(576-645)で、雄当は(572-618)で、蝦夷より4歳年上なのでこの人物が善徳の可能性がある。この人物の長男、蘇我倉山田石川麻呂(605-649)は、石川麻呂の自害(649年)の後に完成することになる山田寺を建てている。馬子の正妻がすんでいたと思われる軽の「槻曲の家」とは異なり、雄当は石川の家に住んでいたので、法興寺の寺司である善徳とは、系統が異なると思われる。
阿毎多利思北狐は蘇我系の人物(拙書参照)なので、蘇我馬子が倭王阿毎多利思北孤であることは確実である。だとすれば隋書に見える倭王が政治を任せた「弟=利歌禰多弗利(リカミタフツリ)」は、蘇我善徳であることは確実である。何故なら利歌禰多弗利とは倭王の太子で長子を指すからである。これほどの重要人物にもかかわらず、その後の歴史に善徳は一切登場しない。蝦夷より年上で馬子の長男善徳とは、果たして一体何者なのか謎の人物である。
一方視点を変えれば、飛鳥寺(法興寺)を建て、恵慈 、恵聡とかかわりの深い人物は、何と言っても厩戸皇子(574-622)である。また厩戸皇子は600-607年当時摂政とされ、現実の政治を行っている。厩戸と善徳は明らかに似た人物である。しかし日本書紀の記述では、厩戸皇子は用明天皇の子で蘇我馬子の長男ではない。
菟道磯津貝皇女の謎を推理
そのため私は本書でひとつの仮説を提起した。それは「蘇我善徳とは厩戸皇子」という仮説である。これを証明するには厩戸皇子の生母、間人穴太部王命は、阿毎多利思北狐の妻でなければならない。「阿毎多利思北狐とは何者か」とは別に、この本で是非注目して読んで頂きたいのは、実は「馬子の妻に関する追求」である。
本書で取り上げた墓碑銘調査から得られた根拠をあげると、
厩戸皇子の弟と記されている来目皇子(568-603)は、実は厩戸皇子より6歳年上である。またこの時代の天皇の位の高い妃は皆、記紀だけでなく墓碑銘に「比賣」と記載されているのに、用明天皇の正后とされる厩戸皇子の生母は、記紀にも「比賣」とは記されておらず、松井塚の石棺にも「間人穴太部王命」と記載されている。これら2点はともに、厩戸皇子は用明天皇の子でないことを示している。また日本書紀で「2人の菟道磯津貝皇女が記されている」のは、実はこのことに深くかかわることも分析している。拙書で推理する面白さを共に感じて頂けたら幸いである。
追記
本書をご購入いただいた方は、是非疑いの目を持って読んでいただき、感じたことを率直に、レビューやブログに書いていただければ、墓碑銘調査を広く世に知っていただくため、大きな支援になると考えています。ご協力いただければありがたく思います。よろしくお願いいたします。
付記)下記は、墓碑銘調査の結果(生没年)を反映した系図です。本の一部にあった掲載の 間違いを修正しております。本をご購入いただいた方は、この系図を見ながら読んでいただくと理解が深まると思います。お詫びして訂正いたします。
なじみの無い人物名に加え、読み方の困難さもあって皆さん四苦八苦してお読みいた
だいています。そのためたくさん出版されている聖徳太子の漫画本や電子辞書を片手
に読み進んでおられる方もおられ、聞くにつけありがたく思っております。